昭和51年、誘われるまま富士吉原ライオンズクラブに入会させて頂きました。西も東もわからない若造 でしたが委員会の所属はPR委員会。当時はPR委員会の編集会議にメーキャップされるメンバーも多く、 委員長に「会員の顔とお名前を覚えるには格好の場だから顔を出しなさい」と言われ毎回顔出ししました。 足を引っ張る事しか出来なかった苦い思い出です。 52年になりCN15周年記念式典が農協会館に於いて行われ、ライオンズキャップを被り晴れがましく出席致しました。

入会して何年か過ぎ、富士吉原ライオンズクラブメンバーであるL川島がガバナーに就任する事になり、 クラブ事務所がキャビネット事務局となり、複数おられた副幹事ライオンやキャビネット幹事が頻繁に事務 所に出入りする様になった或る日、事務局に呼び出され、年輩の多くのメンバーが集まる会議に出席させら れ、何で私がという違和感と身の置き所のなさに困惑致しましたが、「地区年次大会は若いメンバーにも縁 の下の働き手として頑張ってもらわなければならない」とL竹村から申し渡され「富士の巻狩りスタイル」 で行われる予定の地区年次大会の準備と、当日の会場設営に飛び廻った慌しくも忙しい一年もありました。

私よりも何年も前から在籍しておられたメンバーは、入会当初少ないクラブ数の為、周年行事にはかなり 遠方でも出かけられた様でよくお話を伺いましたが、中でも尾張一の宮ライオンズクラブでの周年行事では、 洋服布地をお土産に戴いた話でびっくりしたものでした。

その頃かと思います。L矢崎がPR委員長をやられる事が決まった時相談を受け、「会報に300~400字で良いから一年間寄稿してくれないか」と。専門の話を12回寄稿する事をおわって、私にとっては当 たり前の事であっても読む人に理解して頂ける様に文章を書く事の難しさでした。反面私にとっては大変良 い勉強になったものでした。

こんな事もありました。IF会館で行われた例会で隣り合わせに座られたのがL林でした。私にやさしく 声を掛けて下さり、「君が当クラブで一番若いメンバーなんだね。実は私が当クラブで一番の年長者なんだ よ。」と、それ迄一度もお話した事もない長老から突然声をかけられ、驚くやら感激するやらで、今でも深 く心に残っております。

平成10年、オーシャンサイドシーライオンズクラブから確か副会長のお嬢さんと、ベトナムから政府役 人のお嬢さん「ホアン・ヴィエット・ガー」さんの二人が来日され、ホームステイをされました。

L石井に誘われてヴィエトナムを訪れたのはそれより2年前でした。その折、海外青年協力隊メンバーの 井出聡子様を紹介されました。井出様を含め3名の協力隊員と夕食を採りながら懇談の中で、「ライオンズ クラブに出来る事が何かありませんか」との問いの中で「国語辞典かカセットデッキが欲しい」と答えが 返ってまいりました。帰国後、L加藤とL髙木にこの話をするとお二人が早速動いて下さり、市内3中学校 から500冊を超える国語辞典を寄贈して頂き、その内から100冊をベトナムへ送りました。それが 機縁となりヴィエトナムとの交流が始まり、2000年に海外青年協力隊員達が始めていた「日本語スピー チコンテスト」の第4回大会に当クラブはスポンサーとして参加した訳です。訪問した時だと記憶しており ますが、ベトナム民族音楽を鑑賞し、CN40周年のアクティビティーへとつながったのです。第4回日本 語スピーチコンテストの優勝者は社会人の「ファン・ティ・トゥ・ラン」でしたが翌年4月に来日され、そ の後17年間、本年7月来日される2名を含め、22名もの多くが日本の夏休みを満喫しておりますし、今 年来日するお二人も一生の思い出として残る事だと思います。